第7回 澤田昇さんに聞く
<秋田県議会議事課長>
今回の先輩は秋田県庁にて頑張る行政マン、澤田昇さん。
県庁に入庁してから、どのような業務を行いながら秋田県を見つめてきたか。また、東京勤務を経て、今後の秋田に必要と思われる視点や、若い人への応援メッセージを語っていただきました。
-澤田さんの高校時代の事を教えてください?
高校2年の時、校舎が木造から鉄筋コンクリート造に変わりました。木造の校舎は趣があって良かったですね。部活は弓道部で、家は近かったのですがよく遅刻しました(笑)。
あと高校時代の思い出といえば、クラス合宿。当時流行っていたんです。当然夜になるとこっそり酒が出てきたりして・・・(笑)。学校の行事ではなく、自主的にやっていたものだったので、とても楽しかった記憶があります。
-大学に進まれたあたりのことも教えてください。
当時はほとんどの人が東京へ行くぞーという感じでした。私の場合、そのまま中央大に入るか迷ったので、アパート探しを始めたのは4月に入ってからでした。だから決まったのは調布から歩いて30分の物件。大学まで通学1時間30分。1年のときはほとんど大学には行けませんでした。このままではまずいと思ったので2年の時に茶道サークルに入りました。当時、阿部正夫先輩(旧姓:千田、横手市議会議員)が阿佐ヶ谷にいまして、美入野の同期や先輩のたまり場となっていて、自分も入り浸ってました。アルバイトも紹介してもらったりして・・・。羽田空港の工事とか。で、3、4日分のお金が入るんですが、みんな阿佐ヶ谷で待っていると(笑)。
大学については、当時まだ学生運動が続いている頃で、2年に1回は学校がロックアウト。試験も2年に1回しかなかったので、進級はそれで助りました(笑)。
4年になり就職の事をじっくり考えたのですが、どうも東京では遊びつかれたので(実は超就職難)、田舎に戻って仕事がしたいなと。そして地方公務員試験(県)を受けようと思いました。
-では心機一転、秋田に戻られてからは?
最初は湯沢の県税事務所へ配属でした。そこで社会人教育を一から受けることができました。今となってはとても感謝しています。大学生のまま使い物にならないのを、指導してもらったのですから。
-秋田県庁入庁後、印象深い仕事は?
15ヶ所ほど異動した中に、税の徴収業務がありました。当時は飲み屋さんで会計5000円以上には10%かかるというような遊興税がありまして、それがちゃんと納税されているか調査する仕事はなかなか難しいものでした。全然違う業務で、大館能代空港工事の発注もやりました。税金を集める方と使う方、両方を経験している。税を集める方では苦労しながら数千円を集めていくのに対し、一方では百億円単位の支出について判断しなければいけなかったりで、感覚にギャップはありました。
-そうすると、品川のアンテナショップについては・・・?
はい、関わっております。結局有楽町のショップを残しながら、他の場所も探せということになりました。物件は、200ヶ所以上、横浜や千葉なども含め探しました。物販と飲食を含めた規模に対応できるテナント料は高く、物件もなかなか見つからず・・・。結局、今の品川に京急さんのご紹介で決まりました。
有楽町についても売り上げが上がっているようでよかったです。売り上げの坪単価は他県ショップに比べて低くはなく、有楽町のショップはむしろ高い方なんです。有楽町ショップに関わっている間は、ホテルや百貨店に対しても県産品の売込みをかけました。当時、赤坂プリンスの久米総料理長が美郷町出身で、秋田県食材を取り扱ってもらったり秋田の食フェアなどを高輪、赤坂プリンスで開催してもらいました。百貨店では物産展も開催しましたが、いつも同じようなものでは飽きられてしまう。農産品も品質はいいものでもロットが揃わないとビジネスとしては難しい。全農等を通さない流通の場合は定期供給を確保できないと、マーケットにも出せないので注意が必要ですね。
在職中は、「産業サポータークラブ」という、秋田にゆかりのある方々に秋田を応援してもらうための集まりも作りました。ファミマの上田社長さんとかDOWAの吉川会長さんもメンバーです。自主的に自腹で、秋田のために何かやってもらうというもの。増田の蔵まちづくりや油田ジオパークの掘り起こし支援などはこのクラブの支援が入っています。多くの会社役員さんに知恵とお力を頂戴しています。ただ、今思うと、県出身の大企業役員さんの多くは大館鳳鳴なんです。横手や県南の高校出身の方は少ない…。ちょっと残念ですね(笑)
-秋田に戻られてからはどのような業務を?
秋田に戻ってきて企業誘致に1年、事業用地の開発にも関わりました。景気が良かった頃は100ヘクタール程度の広い敷地が求められていたのでそれに応えられるように用意したのですが…、景気の回復を待って暖めているところです。この間、横手市長の五十嵐さんとはご一緒に仕事をさせていただきましたが、ご迷惑ばかりかけて恐縮しております。
今は県議会事務局におります。秋田県議会も(日赤跡地開発などで)白熱していて、毎月議会があるような状況。「戦う議会」になってきた感があります。県民にとっても議論がなされるのは良いこと。業務において支援していきたいと思います。
-最後に、後輩へのメッセージを頂けますか?
日本は今まで同様の右肩上がりでの経済成長は難しく、海外マーケット開拓、イノベーションも出尽くした感がある。企業においては当面コストダウンがもっとシビアに行われるでしょう。今の若い方々を取り巻く環境はどんどん変わっている。その中においては、じっと我慢するのではなくポジティブにフレキシブルに対応して欲しい。時には人生観を変えてでも環境に適応する必要があると思います。
できればナンバーワンを目指すより、オンリーワンになって欲しいと感じます。私が企業への人材の斡旋を行っていた時に気が付いたのですが、そういう人たちだとオファーがあるし、秋田でも紹介先が見つかりやすい。今有効求人倍率が0.4あたりですが、もういわゆる「普通の仕事」は出てこないのです。地元で起業しないか?と言っても地元向けサービス業だけでは限界がある。県外でマーケットを求められるネタで考えるビジネスをしないと秋田でも難しいでしょう。
県もいま同じような状況です。東北の他県と同じようなことをしても意味がない。東北の中でどういうポジションにあって、強みは何だ?と。選択と集中で新しい産業起しをしなければいけない時期に来ています。秋田港を使って対岸の国やアジア圏を狙っての視野をもたないと、秋田県は厳しい。若い人も秋田県も、置かれている状況は似ています。
平成22年3月、HP委員松塚がお話を伺いました。