第6回 五十嵐忠悦さんに聞く

<前・横手市長>

 今回の「先輩」は地元・横手市の首長、五十嵐忠悦さん。大学時代と卒業後の数年を東京で過ごした後、地元に戻って家業に入られた五十嵐さんが、どのようなことを考え、今の政治への道を進んだのかを、ざっくばらんに語っていただきました。美入野会のために、多くの若い人のためにと、予定時間を30分も超えて話してくださいました!

 自身の高校・大学時代の話、横手に戻ってきてからの家業のこと、まちづくり活動に汗水流したこと、市政に関わるようになってから苦労していることなどをお聞きしました。

 

-五十嵐さんは学生時代をどのように過ごされましたか?

  中学校はモノを考えずに過ごしてましたね(笑)。高校に入ってからは、もの凄い刺激を受けたね。キャラクターが強い奴ばっかりいたから。それでも勉強の刺激だけは受けなかったようで(笑)。
 クラブは一生懸命やりました。中学では野球を、高校では演劇部を。演劇にはすっかりはまってしまって、
勉強しないで部室にばかりいました。 親父は有名国立大に行って欲しかったようですが、私は私立文系のクラスに進みました。これまた濃い奴ばっかりで…。

―大学時代はどのように?

  いくつか受かった大学のうち、西武線江古田にある武蔵大学に入りました。ここは田舎の中流家庭の大人しい子ども 達が集まるような雰囲気の学校で非常に大人しい学校だった。我々は全共闘世代だけど、あまり活発じゃなかった。 すぐ近くの日芸には黒ヘルもいたけどね。
 大学ではラグビー部でした。もともと入るつもりはなかったのですが、 強引なクラブ勧誘で誘われるままに入ってしまいました(笑)。
 
  大学時代はベトナム戦争もあったし、中国では文化大革命もあった。勉強はしなかったが、世の情勢には非常に敏感 だった。学生運動をやっていた訳ではないが、読むものといえば思想的なものが多かった。今の人にとってはデモなんか 遠い話でしょうけど、我々の時は行くのが普通、関心を持つのが当たり前だったんです。今は世の中の動きなんかには関心持っても持たなくてもどうでもいいやという感じになっている。本当は大変なことになっているのに。 どうせ変わらないだろうという諦めなんでしょうね。
  我々の頃はまず動く、そして考えたりしなきゃいけない のではという人が多かった。東大の安田講堂の時も、同期が沢山行ったようだった。今となってはすっかり転向したやつもいるし、今でもその筋で活動してるやつもいる(笑)。

―家業を継ぐつもりはあったのでしょうか?

  高校のときからいずれ横手に戻るという意識はありました。大学を出て、2年ほど知り合いの会社に丁稚奉公を。 仕事を通して、多くの破天荒な人々と沢山会うことができました。
 25才で横手に戻ってきて、その後25年間は家業に就いてました。

―市長になられるまでの経緯やきっかけなどは?

  戻ってきて私は横手青年経営者会という組織に入りました。それを全国組織につながる青年会議所(JC)に変えようという話になり、 その先棒を担ぎました。その後37歳で横手JCの理事長を、39歳で県ブロック協議会の会長をやりました。40歳でJCを卒業した頃、秋田ふるさと村を誘致しようという話が出てきました。ふるさと村は計画当初は、協和町にできる予定だったのです。

 まず、横手平鹿のJA青年部や商工会青年部などのいろいろな団体と協力して、横手平鹿地域活性化青年協議会というものを立ち上げました。シンポジウム開催やメディアに沢山出て、こちら(横手)の方が熱意があるんだ!というのを示した後に、県庁に誘致のお願いに行きました。これが平成元年の頃です。
  平成6年にふるさと村が横手にオープンしましたが、その前には横手平鹿広域観光協議会という運動体が作られました。観光の視点でまちづくりを進めようというものです。ふるさと村を応援しようという目的もありました。同時期、仲間と会社を作ってふるさと村の中にテナントも出しました。横手平鹿の物産品を売って農業振興の一役を担いたいという思いがありました。この頃、仲間と必死に頑張った誘致や地域活性化の活動が市長に向かう原点になったと思います。

 平成9年に寺田さんが市長を辞めて知事に出るという時、先輩方から応援の声を頂いて出馬を考えました。
それまでは民間人としてまちづくりを実践してきたが、限界がある。 行政と一緒にやらないと出来ない部分も非常に多いと感じていましたので思い切って出馬しました。

―では、横手においては観光をメインにするべきだということで立ったのですか?

  いや、観光のみでなく産業基盤を何とかせにゃいかんとずっと思っていました。今でもそうです。
  当時は「あきたこまち」もよく売れていた。作ればいいという雰囲気であり、マーケティングという感覚が農家には ほとんどなかった。農協にも。米(作物)は作って農協に出荷すればそれで終わりという感じで、消費者が望むものを 望む時期に、望む品質で、望む価格でというのが何もない。そのような考えが、秋田県の農業を進化させなかった。
  ただ役所は商売を直接やるわけではないので、農業をやる人を応援したり提案するぐらいしかできない。
リスクがあるということでなかなか進まないことが多いが、現状を打破するためにそれを恐れずやるという気風は秋田には少ないですね。秋田は「米」というDNAがしっかりと残っている。やませなんかもないので万一に備えるという感覚も薄い。「何とかなるさ」という風潮です。この辺は食べ物でそんなに困ることはないから、まぁ豊かで、がつがつする必要はない。だから共同体の秩序を乱すような動きはダメで、まさにムラ社会。昨今の社会の中で農業だけはムラ社会が残っているが、今そもそものムラが壊れているわけですよ。ムラ社会の良いところを残しながら変化に対応するとなると、なかなか難しい連立方程式を解くようで…。
  良いところというのは人間のネットワーク、相互扶助の精神があること。それはコミュニティの基本ですよね。コミュニティがあってかつ経済的に新しい視点・手法を取り入れて農業をやる。この中には自己矛盾があるとよく言われます。

 だけど、必ずこれはやれるはずだと私は思うんです。従来の感覚を引きずっていては出来ない。地域の人間のネットワークの中で生きるということと、農業を現代的に考えて取り組むのは矛盾しているとは思わない。 もちろん農業に限ったことではないが、産業振興して雇用を増やさないといけない。若い人のためにも。

―そうなんです。戻りたくても戻ってこれないという同窓がたくさん居る理由はそこなんです。新しい仕事をこの地で やれるかというと、そううまくもいかないのではという不安もありますし…

 そう。だから、まずしばらくは農業振興と企業誘致の2本立てに取り組みます。 人口はますます減るんだから、 地域が収入を増やすには、交流人口を増やすしかない。 だから観光には力を入れる。
 
  観光客が来たとき何を見るかといえば、工場を見たって喜ばない。この地域を味わえる場所が望まれます。 横手の光と食べ物ですね。よそから来た人に「どちらからいらっしゃったのですか?そちらは○○のおいしいところでしょうから、横手では□□をお出ししましょうか?」と言えないとマズイ訳です。
 
  いずれ、地域の産業(米以外)も同じように 考えねばならないのです。

 

―前の職務と今の職務を比べて思うことは?

  前のところ(印刷屋)は平たく言えば全業界がお客さん。世の中の動向に敏感でいられるのが印刷業なんです。いろんな業種の所に出入りして、話が聞けた。マーケティングという感覚が強くあった。何のためにこんな事をやるのか、とかその目的のためにはこの手法の方が良いとか、そういうアドバイスが出来ないといけないものでした。
 そういう姿勢で業務に取り組むというのは、今の職務にも応用できるものはあります。組織と税金を使わせてもらって、政策目標の実現を期する訳ですから、いろいろ気を遣う部分はありますが、組織を経験してこないでいきなりこういう仕事に取り組むとなると大変だったでしょうね。
 
  違いといえば、利益と顧客満足度で判断するのが民間企業でしょ?利益率極大化が最大使命。しかし行政というのはぜんぜん違う。住民満足度を最大限高めるのが仕事なんです。

―今の仕事において、一番大変だなと思われるところは?

  お金がないこと。やりたいこと、やんなきゃいけないことがいっぱいある。でも、財政が苦しい。地方経済も苦しくて、
国も財政難だからお金は来ないのです。市町村が合併した効果はなかなか見せづらい。負担が増えているという部分が、 実際あります。しかし、効率だけでは片付けられない。効率は極限まで追い求めながらも、地域格差などの効率だけでは解決できないものを、どう担保するかが地方行政の責務なんです。でなければ、民間企業が役所を経営すればいいということになる。自治体行政は全部効率でやってはいけない。
  地方は切り捨てなさいという考えでは、本当にとんでもない事になってしまう。

―心配事は他にもたくさんありそうですね?

  ええ。横手では人口が年間1,000人ずつ減るという試算がある。4年後には10万人を切るという状況だが、問題は人口が減ることではなく、活力が落ちている事。若い人が出て行かざるを得ない。結婚できない。子どもが生まれない。
労働人口が減っていく訳で、この地域は農業も辞めていくことになるのです。農業での再生産機能がなくなっていく。
実は大変な心配が近い将来にあるのです。

―最後に、後輩へのメッセージを頂けますか?

  田舎に帰って創業してみませんか? 
  どこかの会社や組織に頼るのではなく、起業にチャレンジしませんかということ。
  そういう人のためには手伝いたいとか、一緒にやりたいという人がこの地域に絶対いて、そういう戦力を待っているの
です。
  単なるUターンというので戻ってくるのではなく、自分の才覚で「私にはこれができる」「こんな事がしたい!」
「一旗上げたい!」という人。そういう人に対しては私も横手市も支援します。私が相談窓口になりますよ!

HP委員 松塚が、お話を伺いました。