第4回 由利健次さんに聞く
<日本航空 元国際線パイロット>
インタビューは年も明けた1月13日、おなじみ健保会館はーといん乃木坂にて行われました。約束の時間ぴったりにやってきた由利先輩、姿勢がよく健康そのもののようです。席に着き、お年が70歳と聞いて一同(当日インタビュアー:HP委員佐々木、金浜、小原)再度びっくり。とてもその様には見えません。
お話は、航空業界における美入野高校出身の偉大なる先達の話から始まり後輩たちへのはなむけまで2時間強あっという間でした。
-はじめに(偉大なる先達について)
まず最初に話をお聞きしたのは、航空界における偉大なる先輩たちの事です。美入野高校にはかつて航空界に名を馳せた先輩たちが多くいました。以下に由利さんが述べた先輩たちです。
10期 | 佐藤 章(要蔵)さん | 日本航空界の草分けの名パイロットだったことは有名な話。 |
21期 | 伊藤 光義さん | 初期の民間航空パイロット。 |
22期 | 佐貫 亦男さん | 航空工学の大御所で数々の航空機の設計に携わった。 |
35期 | 瀬田川 忠二さん | 戦前の旧日本航空に入り、戦後は日本航空整備株式会社の設立に携わった。 |
38期 | 河合 六郎さん | 瀬田川さんと同じく戦後日本航空整備株式会社に入り、整備の神様と言われていた。 |
49期 (同期) |
守屋 忠さん | 東大の工学部航空学科を出て、三菱重工のヘリコプター部門の技師長、ヘリコプター関係では世界的。 |
-高校時代についてお聞かせください。
昭和25年から28年まで美入野高校で高校生活を送りました。高校時代の一番の思い出は、昭和27年の県の9人制バレーボール大会でのベスト4と、又自分もその大会のベストナインに選出された事です。因みにその大会優勝した大館鳳鳴高は、そのまま全国制覇を成し遂げたました。いずれにしてもこの部活の合宿で、自らの偏食も治り、今の自分の健康の礎はこの時期に出来たと思います。
思い出の先生といえば、やはりバレー部の中沢一男先生と、副部長渋谷先生です。
-日本航空入社当時のお話をお聞かせください。
昭和28年から昭和32年まで電気通信大学で学生生活を送りました。大学4年の夏に日本航空の航空機航法の実習に参加しました。そこでは、週一回の非常に厳しい試験もあり、かなり鍛えられました。又、この時DC4で 羽田⇔三沢の体験搭乗も経験しました。
そもそも自分がパイロットに憧れたのは、小学校一年生の時に聞いた真珠湾攻撃での戦闘機の活躍でした。そして昭和32年念願の日本航空に航空士として入社しました。戦後初めての新卒採用だったと記憶しています。当時は東京・サンフランシスコ間、週三往復でサンフランシスコまでの飛行時間は途中二ヶ所で給油して24時間のフライトでした。航空運賃は24万円、大学新卒の給料の二年分。その頃の航空機(DC-6B型)による太平洋横断は、今のようにGPSみたいな便利なものがなかった時代ですから大変でした。そのために太平洋上で位置を測り、針路を決めて目的地に安全に誘導するのが航空士の役目です。操縦士は飛ぶだけの商売ですから、太平洋の真ん中では正確な位置がわからず、航空士だけが頼りでした。太平洋に出ると航空士は一番偉かったような気がします。
-日本航空時代の記憶に残る思い出をお聞かせください。
1. パイロットとして
昭和32年に航空士として日本航空に入社した後、4年後の36年に日本にジェット機(コンベア880/DC8)が導入され、それとともにこれからは、位置情報が世界中どこででも取れるように技術が進歩するといわれ、航空士から操縦士に転向するための操縦訓練を開始しました。そして、昭和38年、ダグラス6B型、ダグラス7C型航空機の操縦士となりました。その当時、日本とサンフランシスコ間を2週間で往復していました。給油所のある島で宿泊しながら太平洋を1週間で渡り、同じようにして帰ってきていました。宿泊所は、ウエーキ島とホノルルとサンフランシスコで、ウエーキ島とホノルルで各々2泊、サンフランシスコ1泊、機中泊2泊というような感じでした。特にウエーキ島は、太平洋の中の飛行場だけの島で、しかも男だけの島(唯一パンナムのみを除いて)でした。ここでは、毎週水曜日に夕食でステーキが出されて、これがいつもとても楽しみでした。又、PX(日本流では酒保:いわゆる売店)では、その当時、ジョニ黒が8ドル、ジョニ赤4ドル(1㌦360円なので、ジョニ黒で2900円くらい、新卒の月給が1万円の時代です)で買え、これを持っていくとバーでよくもてました。そういえば、クリネックスティシューや果物も同じように喜ばれました。
2. 海外駐在について
昭和40年2月から2年間ヨーロッパ駐在運航乗務員としてイタリアのローマに滞在し、生まれて始めての海外生活を経験しました。ここでは、イタリア人と日本人の気質の違いを体感したのが強烈な印象で脳裏に残っています。
ある時、週末に郵便局に料金の支払いに行った時の事、当時はIT化されている筈もなく、当然人々は窓口に並ぶわけですが、その日は特に窓口がこみあっていました。すると誰が言うのでもなく自然に列が出来ていく。又、中には悪い奴がいて割り込みをしてくる。すると、列を作っている人たちの中から、その割り込みした人への非難の声が沸き起こり列の後ろに並ばざるを得ないような状況になる。こんな事は、日本では経験した事がなく正にイタリア人気質を見たとともに、この様なところから民主主義は起こってくるのだろうと実感しました。
3. 航空研修所所長として -教育の喜び-
昭和63年10月から3年間、カリフォルニア州ナパ市にある日本航空ナパ運航乗員訓練所に所長として赴任しました。この訓練所は一般大学を卒業したパイロット希望の若者を採用して、将来の国際線の機長を育てるための基礎訓練所で、夢に向かって真剣に取り組んで行く若者たちの目は輝いていました。入所した時の顔つきと卒業の時の顔つきはまったく違います。
もともと人を育てる仕事が好きな方でしたから、ここでこの若者たちとの出会いは今までの人生になかった一番の感動でした。訓練を重ねた若者たちが、ある日単独飛行訓練を行う。いつも隣にいた教官がいない空では、すべて自分で判断しなければいけない。その緊張感から、操縦する若者は皆シャツにべっとり冷や汗を掻く。やっとの事で着陸した若者は、緊張から解放されるとともに単独飛行に成功した感動で涙する。するとそれを見た教官が又涙する。そして冷や汗を掻いたシャツ教官全員でサインする。一生の宝だ。人を育てる事はとても面白い、人を育てる事はとても意義深い、人を育てるととても充実する。教える事には感動が多い。ここから140名のパイロットが巣立っていきました。飛行機乗りの仕事とはいえ、ここでの3年間は教育の比重の高い、しかし実り多い3年間でした。
-日本航空退職後から現在に至るまで
平成7年2月に日本航空を定年退職しました。その10月にJ-AIR航空会社に再就職しました。これは、広島に本社を置く地域旅客運送航空会社(コミューター・エアライン)です。20人乗りの小型飛行機のパイロットでした。この経験は、いわば、飛行機乗りの自分の原点に返った様な経験でした。又、広島は単身赴任で、何十年ぶりかの独身生活を謳歌しました。この経験のお蔭で、いざという時に自立できるという自信を得ました。そして、平成10年2月にJ-AIR航空会社を退職し、完全リタイヤの身になりました。
-現在の生活について
(現在は、悠々自適とお見受けしましたが・・・)
その通り。又、体重は60KG、血圧は138-83です。(まさに理想的ですね。)実はパイロットは、年2回定期的に身体検査があり一定の数値を示さないと、パイロットの資格を剥奪されるので、現役の頃から自己管理は徹底していたと思います。そのおかげで、今でもすこぶる健康、充実した生活を送っています。
(まさにうらやましい限り。)以下に、本人自筆の現在の心境を掲載します。
飛行機乗り時代から、外地に飛んだ時の時差対策としてやっていたゴルフは、今でも続けていて、ハンディキャップも一時は11ぐらいまで行きましたが、今は15ぐらいまでになってしまいました。リタイアしたら、今までと全く違う世界で、経験したことのないことをやって見ようと思い、完全リタイア後、謡曲を習っています。広い野っ原でのびのびとボールを追っかけるゴルフと、腹の底から大きな声を出す謡が現在の健康の維持に繋がっているのかも知れません。
現在はすべての時間、空間が自分のものであり、自分の生活、自分の人生を、誰にも邪魔されず、左右されず、自分だけで作り、実行できる自由、幸せを堪能している。毎年の主なスケジュールは、30年来年中行事としている、北海道ニセコでスキー、それからふるさと会、そして夏休み、さらに毎年NAPAに里帰り(?)してのゴルフと悠々自適ながら休む事がなく、年中身体を動かしているとの事です。
-後輩たちへ一言、お願いします
夢を持って下さい。夢を実現するために努力を続けて下さい。この続ける事が大事です。やりたいと思い行動し続ければ何とかなります。努力した結果夢が叶えられれば大成功。夢に近い所まで辿り着くだけでも成功です。そしてその過程で得られた知識や知恵を次のチャンスで生かせば実りある人生間違いなしです。
◆由利 健次 先輩(49期)の経歴紹介◆
昭和10年 2月19日十文字町に生まれる
昭和25年 4月 横手美入野高校入学
昭和28年 3月 横手美入野高校卒業
昭和28年 4月 電気通信大学入学
昭和32年 3月 電気通信大学卒業
昭和32年 4月 日本航空に航空士として入社(戦後、航空再開後初めてのズブシロの採用)
昭和36年 4月 航空士から操縦士に転向のための操縦訓練開始
昭和38年 9月 ダグラス6B型、ダグラス7C型航空機の操縦士となる
昭和40年 2月 ヨーロッパ駐在運航乗務員としてローマに赴任
昭和45年 9月 ボーイング727型航空機機長(国内線)
昭和47年 1月 ダグラス8型航空機機長(国際線)
昭和50年 2月 ボーイング747型航空機(ジャンボ機)機長
昭和63年10月 日本航空ナパ運航乗員訓練所(カリフォルニア州・ナパ市)所長
平成 3年10月 帰国
平成 4年 9月 航空功労者運輸大臣表彰
平成 7年 2月 日本航空退職
平成 7年10月 J-AIR航空会社に再就職
平成10年 2月 J-AIR航空会社退職
2005年1月 HP委員(佐々木、金浜、小原)がお話を伺いました。