第3回 上田準二さんに聞く
<株式会社ファミリーマート 代表取締役社長>
2004年12月21日午後1時半、いつになく寒い年の瀬にどんよりとした日、ホームページ委員の加藤君(98期)の遅刻で10分遅れて社長室に入った我々3人を上田氏はやさしい笑顔で迎えてくれた。ホームページ委員の遠藤徳家志氏(65期)とは同郷で家も近いらしく、とりわけがっちり握手をし、取材に応じた。
5分ほどして「誰もタバコを吸わないの?」と聞くので筆者が「私が・・・」と応えると、相好を崩して「じゃ、一緒に吸おうよ。」と言ってくれた。上司の命令でなった社長というより、正にその勢いは創業社長のそれであった。2時間あまりの取材に彼は血行のいい顔と表情豊かな態度で大いに笑い、大いに語った。
-自転車及び飲酒クラブ(高校時代)
高校時代は特にクラブ活動はやりませんでした。毎日往復40キロの自転車通学で心身共に疲れきってしまい、クラブどころの話ではありませんでした。ただ、楽しみもあったのです。沼館高校(現・雄物川高校)に通う女子高校生や大森病院に通う看護婦さんと田圃のあぜ道ですれ違うことでした。当時は幹線道路でさえ舗装されていませんでしたので、通学には難儀で埃を避けるために逃れたあぜ道でありました。
その中で一人の看護婦さんと目線で感じあうものがあったのか、何かドキドキしたものです。相手に気があるんだか、ないんだかとんと判りません。まぁ、プラトニックラブの最たるものでした。すれ違うだけでカーっと頭に血が登るものですから、これは勉強のためによくないことだと思い、一計を案じました。30分遅く登校してみることでした。そしたら彼女とも会わなくなりました。ところが一週間経った、ある日また彼女とすれ違うようになってしまいました(笑)。今考えるとお茶でも如何ですか?なんて言って誘うべきだったかもしれません。
あの頃のあの場所に喫茶店なんていうのはありませんでしたから、リンゴ畑でリンゴでも食べませんか?という誘い方になってしまいますね(笑)。疲れきって大森にたどりつきますと、中学まで同級生の豪農の長男達が誘いに来ます。家に来て、一杯やらないか、と言っては誘われるんです。そして毎週酒盛りですよ。一升瓶抱えて。 毎回、御馳走になってばかりでは辛いものですから、休みの日は当時高級品だったトリスの大瓶。一升はあったと思いましたが、今度はこれを私の方が持参してまた一杯やります。彼らも変わった酒ですから、負けずに頑張って飲みます。こうやって、鍛えた酒量の多さは私の後の人生に大きく役立つことになります。
私の高校時代はですから自転車通学と飲酒につきますね。これが私のクラブ活動みたいなものでした。そういえば、当時は女子が少なく私のクラスに7、8人まとめて組み入れされていました。私は女子の列の直ぐ後ろの席でした。先生に礼をして座るときに前の女子のお尻におでこがぶつかったりしまして、そのときのくっきりと出たシルエットに随分と刺激されたものです。そのうち、彼女は私の視線を感じたのか、座る毎度に振り返って「キッ」と私を睨んでから座るんです。その目がまた可愛かったもんです(大笑)。そうそう島森路子さんも一年生のとき、同じクラスでしたが、彼女だったか別の女子だったか記憶にありません(笑)。
-ウートピッシュ山形大学
そういう退廃的とも言える高校時代を過ごしたものですから、卒業して直ぐ大学には入れませんでした。家庭の事情もあり、私立大学なんていう選択肢はありませんでした。一年間ブラブラしましたが、秋頃になってやっと頑張ろうという気持ちになりました。それでも全く自信がなかったんです。
どこで仕入れたかは覚えておりませんが、山形大学に学生自治寮があることを知り、私は山形大学を受験する予定の学生ですが、受験日までその寮に寝泊まりさせて頂けないでしょうか?と手紙を書きました。そしたら、寮長から返事が来ましたよ。快諾の。そして、10日前から乗り込んで受験に備えました。
一食50円で2食付きです。それから暖房用の炭が100円。ですから、一泊2食付きで200円でした。これを払って泊り込んで勉強して、受験に備えるつもりでした。ところが、4年生の寮長が入寮を認めた学生ですから、皆珍しがって集まってきます。この時期は学生は春休みですから、帰郷できる者は皆帰郷しております。残っている者は全員帰郷の電車賃のない者ばかりです。
それが入れ替わり立ち代わり私の部屋を訪れては、まず一献ということになります。こっちも嫌いじゃありませんから、お付き合いする。その内気に入られましてね。先輩たちの数がどんどん増えていきます。珍しかったんでしょうね。もう試験まで3日となった晩です。激励のつもりだったのでしょう、寮長がまた一升瓶を携えて私の部屋を訪れました。さすがの私も「もう勘弁してください。これ以上飲んでると試験に受からなくなります。落ちたらアバに怒られます。」とこう告白せざるをえないところまで追い込まれておりました。
「君は何の科目を選択して受験するのかね?理科は何、数学はⅠなのか、Ⅱなのか。文科の科目は世界史か日本史か?」と聞いてきました。そして、それを答えましたら、流石寮長です。即座にその年の問題を作っているであろう教授のゼミ生を集めてくれました。 そして、あの先生は放物線好きだからそれに焦点を合わせろ、あの先生はルネサンス馬鹿だから、そこに山を張れ。即座に受験科目の山が決まりました。この山は見事に当たりました。殆ど当たりました。入学の試験の成績は同期の数段自分より頭のいい男よりいい成績で入学することができました。
それからというものはこの寮に入寮も決まりましたし、育英会の奨学金の試験も持ち前の別の頭の使い方で受かり、あんまりお金の心配をせずに大学時代を送りました。でも根が好きだと言いますか、寮の労働班でもありましたので、アルバイトはしました。当時は近畿日本ツーリストの添乗員が専らメインのバイトでした。
ですから、1年間のうち5ヵ月位は山形にいませんでした。高校の修学旅行の添乗が主でしたから女子高校生にはもてましたよ。今みたいな中年太りではありません。紅顔の美少年でしたから(笑)。寮は手紙の山でした。モテましたけれども、一切お付き合いはできません。そんな事をしたら、即座に登録抹消です。
添乗員としての成績はいい方でしたから、アルバイトではありますが、正社員扱いです。3年生の時には正社員が私のサブでついた位です(笑)。それでも賃金の高いアルバイトを目指しましたね。こんなこともありました。ある時、横浜のガスタンクの工事を東京のゼネコンが取り、これを山形の下請け業者が請けるわけです。でも山形にそんなに人はいない(笑)。そこで寮に話がきます。私は賃金を計算して、行くことを決めました(笑)。鉄筋を組んで、仮枠を組んで、生コンを入れますが、あんまり硬いコンクリートは駄目なんです。軟らかいコンクリが流れて入っていくんですが、鬆(す)ができます。これを木屑でヒョイヒョイと埋めていく仕事でした。ですが、これが高い所でやるんです。ガスタンクですから(笑)。当時は安全紐も何もない時代です。これに皆参ってしまいます。一緒に来た人の中で7割は2,3日で帰って行きます。
私は高いところが好きでしたから大丈夫でした(笑)。学生もやるもんだと本業の土方の人達に可愛がられましてね。夜は職場で毎晩一杯ですよ。これも私は決して彼らに引けは取らない(大笑)。その内、長雨が続いたりしますと桜木町に遊びに行くということになりまして、皆で出かけるんです。安キャバレーでしたけれど、私は一銭も払わずいつも御馳走になりました。バイト代には殆ど手をつけずに大学に戻りました。
そして戻りますと、代返をしてくれた男、ノートを取ってくれた男達にお礼をするわけです。確か代返は一回100円でした。インスタントラーメンが一個10円の頃でした。20回は2000円とかね。ノートはいくらでしたかね・・・。とにかく大したことはないんです。何しろ10畳一間に5人住まいですから、授業に出るのは1人か2人で十分です。残りは稼ぎにでるんです。私は専ら稼ぎ頭です(笑)。酒買って来い、つまみも買って来いってんで大騒ぎです。よかったですね。
私はこう言っては何ですけれど、ノートを真面目に取った男よりも成績は良かったです。年がら年中、外に働きに出ていることもありまして、勉強そのものが新鮮だったこともあったでしょうが、他人が取ったノートの行間を読むのが私は得意でした。ですから、先生はこの学生は教えた内容を掘り下げて解答している、と思ったんでしょうね。ノートを取ってくれた男が良や可なのに私は優が多かったのを覚えております(笑)。
バイト三昧で大学生活を3年間、終えようとした頃事件は起きました。私はその時炊事長をしておりました。寮では、各部長は3年生、寮長は4年生と決まっておりました。このお陰で大学には入学できましたし、好きな仕事もしながら勉強の成績も良好と、いいことづくめでしたから、お礼奉公のつもりで3年生は炊事長、更に4年生になったら寮長をおおせつかるだろう、と思ってましたし、私も覚悟はしておりました。
寮長になったら、仕事は殆どできなくなりますし、夏冬の休みにもあんまり帰省するわけにもいかない。何かあったら大変ですから、寮に詰めていなければなりません。むしろそういう環境の人が寮長に推挙されるようになっておりました。私も入学時はその寮長に助けられたわけですから、半ば覚悟はしておりました。
ところが、その頃になって関東の学生運動の闘士達が取締りから逃れて我が寮になだれ込んできました。民生同と社青同とかいうグループでした。学生自治寮というのは国立では東大の駒場にもあったと聞きましたが、その頃は機能停止に陥ったと聞いておりました。そこで残ったのが山形大学だったのかどうか知りませんが、とにかく大挙して「隠れ家」として押し寄せたのです。大学構内をスピーカーでギャーギャーやっていましたよ。それ以降、寮の食事が足りなくなってしまうのです。
そこで食事の員数計算をしたり、見張りをつけたり、テーブルに寮生の名前を一々書いたりして原因追求に努めたところ、学生運動家達の食事の盗み食いによるものだと判りました。彼らと懇談を開いたこともありました。私は言いましたよ。「そんな立派な活動でも革命でも、他人の食事を盗んで食うというのは泥棒じゃないか。泥棒がやる活動が正義であるはずがない!」と言いました。
しかし、結局、この騒ぎは収まる方向より広がる方向にいきました。自治寮が運動家の拠点となることを恐れた大学当局は昭和初期からの歴史のあるものを、古くなったということ、キャンパスの景観にそぐわないということで閉鎖の方針を打ち出しました。旧制山形高校からの自治寮でしたからね。その時代のOB達が大挙して旗を振って、寮歌を歌い反対しましたが、駄目でした。そして取り壊されるときも彼らは押し寄せました。泣きながら昔の寮歌を歌っていました。
私は殆ど知りませんでしたが、気持ちは解りました。全部で7棟あったこの寮の取り壊しをもって私の大学時代のユートピア生活は終焉を迎えました。そしてそろそろ就職活動の準備をしなければならない・・・と思い始めました。
-アバが下駄屋と間違えた会社(就職時代)
就職活動をしなければならないとは言っても、今の人達のように会社訪問なんていうハイカラな活動はなかったと思います。私はイチゴとリンゴを持参して大学の女性事務員さんのところに行きました。そして、就職応募の会社案内で、大学の事務局に一番にきた企業を私に連絡してくれるようにお願いしておきました。それが伊藤忠商事であり、就職が決まった会社だったのです。
田舎のアバが嘆きましたね。その頃兄(横手高校58期)は住友商事に勤めておりました。三菱だ住友だというのは聞いたことがあるが、国立大学まで卒業して伊藤忠(ただし)なんていう田舎にいくらでもある名前の下駄屋みないな会社に入る馬鹿がいるか・・・ってね(笑)。
最初は経理でした。一年も経たないうちに、君は経理は向かない(笑)って言われまして、それからは営業畑です。大阪に5年、シカゴに数年、東京の営業本部にきまして、業績が急降下していたプリマハムに出向してここの業務改善に奔走いたしました。ここでは、生産、営業拠点の統廃合を行い、それに伴って人的リストラもしました。従業員の再雇用先の確保など結構苦しい仕事が続きました。
このままプリマハムでと思っていたところ、伊藤忠がセゾングループからファミリーマート持株を買い取ったんです。もともとセブンイレブンとの関係が深いプリマハムでの地位が微妙になったと思っていたところ、伊藤忠の丹羽社長から伊藤忠に復帰して一年後にファミリーマートに行くように命じられたのです。その後2年間、常務を経験して3年前から社長です。
-ファミリーマートの社長として日々研鑽していること
私は社長になってからはいつも社員に言っております。物事を難しく考えない。やることは至ってシンプルなんだと。そしてキーワードは「元気、勇気、夢」であると言っております。元気に心掛けていれば自然に勇気が沸いてくる。そうすれば夢をもてるようになる。元気に前向きに仕事をしていれば1年かかってやっていた仕事が半年で、一週間掛けていた事が一日でもできるようになるんです。時間に余裕ができる。成功体験が身につくようになります。
当社では国内を19のブロックに分けてあります。ここで私は「社長塾」というものをやっております。その他に管理職などとの塾、外部での講演と年間30回以上、人前に立っております。社長塾では一日を3部に分けます。早朝からお昼まで幹部と加盟店を回り、午後1時から5時まで若手社員と討論、そして6時から10時頃まで幹部を交えての3部です。昼間話ができなければそれはそれでいい。飲んでからでなければ話ができないというのなら飲んでやろう。
このように現場の社員と直接話をすることで現場の声を聞くと同時にトップの考え方がどれだけ浸透しているかの等の実態把握に努めます。また、社員が気兼ねなく言いたいことを言えるように、社員からも会費を取っております。1000円ですけどね(笑)。大体50人位集まってわいわいやります。これも若い時に鍛えた酒量が効いております(笑)。そうそう若い者には負けません(大笑)このように現場を重視し、社員教育ために移動研修バスも出しております。
「ホラは大いに吹きなさい。3つのうち2つは実現できなくても許しましょう。しかし、吹いたホラに向かって行動し、努力しなさい。全く行動も起こさず、努力しないのは嘘つき、ペテン師、詐欺師になります。私はホラ吹きはいいけれど嘘つき、ペテン師、詐欺師は嫌いだ」というようにしております。
この会社では私は人的リストラはやりません。社名のようにファミリーでいいんです。即ちトップダウンとボトムアップが瑞々しくながれ、何でも言い合える会社にしていこうと言っています。但し、内々のなかよしクラブでもたれ合いの企業では駄目です。ファミリー(家族)の一人一人が強い戦闘意欲を持ってお互いの能力を高めあっていこう、心の替え歌を歌おう。社員にそれぞれの能力を遺憾なく発揮してもらい、ひいては人間改革に繋がるように、組織、業務、制度、コスト構造、意識の5大改革を実行しております。年齢には関係ありません。先日も38歳の役員を誕生させました。8階級飛びです。やる人間は評価します。
また、中高年にはマイスター(専門職、達人)制度を導入しております。定年間近になってくると55歳位から自分の仕事量を調整しだします。諦め気分になって適当な仕事をしだす。これは企業にとって非常なマイナスです。そこそこいい給料を取っているわけですから。この様な意識を変えるために情熱を持って仕事をしている人は定年を迎えても引き続きマイスターとして会社に残ってもらうのです。この制度のもとで中高年もまだまだチャンスがあると意欲が高まってきているようです。
ファミリーマートは現在日本ではコンビニエンスストアのシェアーが3番目です。日本国内では店舗数を逆転するのは困難でしょう。どこも頑張っているんですから。しかし、大手コンビニでファミリーマートだけが日本で生まれて日本でノウハウを蓄積して育った会社です。この日本発のコンビニが日本的サービス方式を導入して、それを携えて全世界で1番になることは可能です。現在、日本、韓国、台湾、タイでアジア1万店を超えてNo.1の規模ですし、2004年夏に中国に進出し、同年12月末の時点で43店舗となっています。2005年にはアメリカ西海岸へも進出します。2008年度末には日本8,000店、海外はそれを上回り12000店、合計でパシフィック20000店チェーンを目指していきます。
これも実は私のホラから始まった話です。私は自分の考えをはっきり持ち、どんな上司にも言いたいことを言ってきました。伊藤忠の丹羽会長はかつての上司の中のお一人です。丹羽さんはアメリカ在勤時代にビジネスマンとしては致命的ともいえる失敗をしました。にもかかわらずそれにどう対処したか見ていてくれる人がいて、困難に真正面から取り組んだ彼を引き上げてくれて、そして社長にまで登りつめました。その丹羽会長が、私のこんな来し方があったればこそ、今のファミリーマートの社長の姿があるのだということを、ファミリーマートの社員向けの講演会で言ってくれました。要するにどんな困難な場面でも言いたいことは勇気をもって言いなさいということなのです。
ですから、私は今後も言いたいことを言いますし、社員にも言いたいことを言わせます。このような私の物事に対する処し方は大学生活の中で培われたのではないかと思っております。
-若い人たちへのメッセージ
最後に若い人達に言わせて貰えば、我々の時代と違って、若い人達は恵まれております。その分ハングリーではありません。ですから、会社に入社して性根を据えて、元気、勇気、夢を念頭に頑張れば、直ぐに頭角を現しますよ。皆そうでない人達ばかりですから(笑)。そうすれば日本ももう少し元気になるのではないかと思っております。
2004年12月 栗谷秀美、HP委員(遠藤徳家志、加藤昴大)がお話を伺いました。