第1回 柴田秀二さんに聞く
<東京美入野同窓会前会長>
-最初に学生時代のことをおきかせください
卒業が昭和27年3月です。入ったのは、昭和21年4月、入るときは横手中学校で卒業は横手美入野高等学校でした。中学に入って1年で学制改革になって、中学3年、高校3年計6年おりました。私たち48期が旧制中学最後の卒業生になります。
昭和21年4月といえば戦後の混乱期で、食料不足・物資不足の時代、教科書もザラ紙でした。先生が公職追放される、軍歴や戦争のときの言動でね。先生はへっていって、休講、休講で落ち着いて勉強できませんでした。
大学で学んだのは農学。農業は経済面からも技術面からも関心がありました。ぼくは東京に行ってみたいという気持ちが強くて農工大を選びました。翌年は3人はいっています。その後はほとんどはいっていません。 東京にでてきたら寮の食事が、麦飯。あと外米。横手では白米でしたけどね。
―卒業後はどんな仕事をされたのでしょう
ぼくらのころは就職がなくって、アルバイトで合板の会社にはいりました。ベニヤ板を接着剤でくっつけてつくるんですが、はがれるんですよね、当時は。業界として見たら、マーメイド号(太平洋を初めて単独で横断した堀江謙一さんがのったヨット)をつくるんで、接着剤がぐっと向上しましたね、40年ころ。45年に独立しました。
合板・加工業界も材料は最近は中国からの輸入が急上昇してきました。外国との競争が激しくてきびしいです。が、われわれ加工業は商品流通のなかで最終需要家の顧客に近いところにいます。顧客志向でやっているので将来性はあると思っています。
―東京都から表彰されましたね
東京の合板加工業者の集まりである京北合板加工業会の役員を20年ほどやっています。それで東京都合板組合連合会に推されて、産業振興功労賞をもらいました。
―同窓会とのかかわりをお話しいただけないでしょうか
昭和30年、当時大学生でしたが、笹山茂太郎代議士(17期)の衆議院の事務所でたくさんの先輩たちが同窓会を創る話をされていたときにたまたま部屋におりました。31年5月に第1回総会が吾妻橋であり、府中からでていきました。いままで同窓会ではなんでもやりました。受付、案内状宛名書き・・・。ぼくが会長になって同窓会はひとりでも多くの人に参加してもらいたいと思って、運営する人は兼職なくして、一人一役でやってもらうようにしています。おかげで幹事会は後ろのほう二列になるぐらい。
いま若い人もふえてきました。それでも春の総会にきた新入会員が引き続いてくることは少ないですね。秋に案内状をだして、もどってくるのです。引っ越して住所がわからなくなるのです。引っ越し先を把握できる妙手はいまのところないです。この間、テレビで人間浴っていうことをいっていましたが、同窓会はまさしくそれで、いろんな人材、いろいろな職業の人が集まって、オーラを吸収できるところと思います。年代もさまざまで、同窓会がいちばんの人間浴かなと思っています。
同窓会は、会則にもあるように「母校の発展に協力する」も会の目的のひとつです。何周年記念に寄することも大事でが、日常どういうことをするか、若い学生諸君に何かできないか常に思っております。森田さん(47期)が母校でパネルデスカッションをやられたことは大きなヒントになりました。
同窓会もまもなく50周年を迎えます。松塚さん(95期)みたいな若い人が参加してくるのは、将来を占うには非常にいいですね。
-ご趣味はどんなことを?
ゴルフとか釣りとか絵を描くとかということはまったくなく、無趣味です。ただ若いときから仏閣をよく参詣し、仏像を拝見してきました。それを基にして“三浦観音札所巡り”を書きました。
今、横手市のローカル「朝倉」の歴史を調べています。年1回“あさくらだより”っていうのに載せて在京の朝倉出身の人たちに送っています。それに横手のニュースも載せています。蛇の崎橋が新しくなったときも渡り初めに行って記事に載せました。あの橋がゲルバート式だということを高橋牧男さん(63期)に教わりました。B5版で16ページなんですが、毎年となるとしんどいですね。やめたいと何度も思いました。今年17号ですが、今度こそ20号でやめられるかなと。
-ふだんはどんな生活をされていますか
毎日会社に行っています。
お酒は好きですが、朝すっきり起きたいというのがあって、少なく飲んで早く切り上げています。週2回は休肝日をつくるようにしています。実行はなかなか難しいですが。
モットーというほどではないですが、ふだんこころがけているのは、ぎすぎす、がさがさしないことぐらいですかな。
2004年5月20日、ホームページ運営委員がお話を伺いました。